第48回:二つの橋ををめぐる攻防戦 その2

ポール・ドゥメ橋を巡る戦い

ポールドゥメ鉄橋は19世紀末、フランスの現地植民地総督であった人物の名前を冠しており、北ベトナムの首都ハノイ郊外に位置する紅河(ソンホン川)に掛 かる全長1686m(陸の部分を含めると2580m)幅12mと、タンホア橋の10倍もの長さの北ベトナム最長の橋である。

1日の物資輸送量推定6000トンにも達するこの橋も米軍にとってタンホア同様最優先で破壊すべき目標であった。が…ローリングサンダー作戦当初は、ハノ イ周囲への爆撃はもっと高い次元、シビリアンレベルで許可されていなかった。時の大統領、ジョンソン氏曰く「私の承認無しに公衆便所たりとも攻撃してはな らない。」軍事に無知な文民による過剰な制限は、「プロフェッショナル」達の行動を妨げ、真に必要な攻撃が不可能であった。
しかし67年8月9日にこの「聖域」は限定的ながら解除され、ポールドゥメ橋は米軍最優先攻撃目標として指定されることとなり、二日後の11日にポールドゥメに対する爆撃を実行する事が決定された。

攻撃の主力はタンホアと同様のF-105D"サッド"であり12機が攻撃に当たる。しかしタンホア攻撃では750ポンド爆弾が使用され、たいした戦果を得ることが出来なかった戦訓から、その時には存在しなかったM-118 3000ポンド爆弾を1発搭載する。また、MIGCAPにはAAMを搭載したF-4Cが4機、SEADにはF-105F8機参加する。

そしてGoing downtown!…F-105サッドドライバーは、ハノイへ攻撃へ向かうことをこう言った。
攻撃の開始である。1フライト4機編隊の攻撃隊は3波にわたって攻撃を加えた。書く編隊はIPを通過後、上昇、13000ftからエアブレーキを開き45 度の急降下角に入る。様々な種類のAAA、SAMが飛び交う中爆弾を投下し、2番機の投下した爆弾が見事命中。橋桁の一つが水中に落下した。
数分後第2回目の攻撃が加えられる。攻撃機は16機のF-105Dと、配備されたばかりでありF-4Cと比べ爆撃照準能力がアップしたF-4D 8機の合計26機。F-4D部隊により2本の橋桁を落とすことに成功。
以上となり、全く橋桁を落とすことのできなかったタンホアと違い一部ながら橋を落とし通行を遮断することに成功した。しかし、やはりながら「一時的」ではあるが…

およそ2ヶ月弱が経過した10月3日、それまで河川船と浮き橋による輸送からポールドゥメ橋を使用した輸送へと再び移行したことが確認された。橋の復旧で ある。しかしながら10月はベトナムの雨季であり、航空機による攻撃は不可能。第二次攻撃は遅れながら同月25日に実施された。
攻撃機はF-105Dが21機。搭載武装は1次攻撃と同様に3000ポンドM118通常爆弾。結果2箇所の橋桁を落とし、翌月11月20日に復旧するまでの間、橋を再び通行不可能にした。
第3次攻撃はおりから続く悪天候がゆえに延期され、12月14日と18日の二日間にわたって実施された。攻撃機はF-105Dが50機で武装はやはりM118である。この攻撃により橋桁1箇所が落下、4箇所に大きな損害を与えることに成功する。
この攻撃の戦果は大きく、以後しばらくはポールドゥメは閉鎖されることとなるが、1968年4月1日よりジョンソン大統領は北緯17度以北の爆撃を停止。その期間中タンホア同様にポールドゥメ橋は完全に復旧し、補給路はさらなる強化が行われてしまう。

交渉のための北爆停止は逆に北の勢力を強めるという効果に働くことになる。

(更新日:2004年3月35日)


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