第94回:最高の超音速戦闘機エースパイロット ギオラ・イプシュタイン(下)

●1973年 ヨムキプール戦争 

いよいよ第二次世界大戦後最大の大航空戦が展開されたヨムキプール戦争が始まります。
上・中編を読まれていない方は、まず下記ページからご覧ください。
最高のジェット戦闘機エースパイロット ギオラ・イプシュタイン(上)
最高のジェット戦闘機エースパイロット ギオラ・イプシュタイン(中)

ヨムキプール戦争は1973年10月6日、先の六日間戦争とは逆に、エジプト軍の奇襲攻撃から始まりました。
本編の主人公であり、5機のミグを撃墜したエースパイロット、ギオラ・”ホークアイ”・イプシュタインは空軍司令部に詰め、飛べないでいました。
彼がマザーベースのレフィディム空軍基地に戻り、戦闘機でのミッションに就いたのは10月16日。
イスラエル軍の大反攻により、すでにシナイ半島からエジプト軍は一掃され、スエズ対岸へ逆上陸した後でした。戦争の大勢は決していました。
イプシュタインは二日間戦闘空中哨戒ミッションにあたるも、ミグを発見することが出来ませんでした。イスラエル空軍全体では16日には21機、17日には16機もの撃墜戦果を挙げていたにも関わらずです。

18日の夕方17時、イプシュタインはミラージュIIICJ ”シャハク”を駆りて戦闘空中哨戒中に出撃しました。
哨戒中、スエズ沿岸において友軍が航空攻撃を受けていると通報を受けます。彼は現地へ急行。しかし、すでに暗くなっていたため何も発見することが出来ませんでした。
上空を旋回中、突然地上でナパーム弾の閃光が走り、その光で友軍のAPCがヘリコプター(後にMi-8と判明)から攻撃を受けているのを発見しました。
管制にこの空域で作戦行動中のヘリコプターが居るかを訪ねたところ、友軍のヘリコプターではないとの返信を受け、イプシュタインはMi-8に対して攻撃を仕掛けました。
速度を殺しながら急旋回し、距離1,100m(えー!でも確かにフィートじゃなくてメートルって書いてあった)で30mm機関砲を発射。Mi-8は炎上し、運河のグレートビター湖に墜落。6機目の撃墜を記録しました。
イプシュタインは自分にとってこの戦争最後の撃墜になるだろうと思い、たとえヘリコプターが1機だけでもゼロに終わらなかった事に安堵しました。
この日から1週間の間にあと11機を撃墜し、世界一のエースパイロットとなる事など知らずに。

終戦後、イプシュタインは撃墜した場所を訪れました。パイロットの墓MI-8の残骸を発見し、残骸の一部を形見として持ち帰っています。

●エジプトへの追撃 

Mi-8を撃墜した翌日の1973年10月19日、イプシュタインはアラート待機に就き、午前10時にスクランブル発進しました。しかし、イプシュタインが戦場上空に到達した時点ではすでにドッグファイトは終わっており、戦果はなく帰還しました。
13時、再びスクランブル発進。スエズ運河上空にて、全機が一列に縦隊を組むトレイルで飛行するSu-7の8〜10機の大編隊を発見しました。Su-7は2機ずつがペアになり低空を飛行。エジプト側から運河に達すると引き起こし、運河沿いに飛行しイスラエル陸軍をロケット弾や爆弾で攻撃し、即座に離脱してエジプトへと離脱してゆく奇妙な戦術を用いていました。
イプシュタインは”スホーイの列”に潜り込み3番目の編隊の後尾(2番機)に対して、シャフリル2 IR誘導空対空ミサイルを発射。 シャフリル2はスホーイに命中し、運河へと墜落しました。ミラージュの迎撃を受けたスホーイの第4編隊目は武器を発射することなく離脱しました。
この日イプシュタインが搭乗した”ネシェル”はフランスのミラージュ5をコピーしたイスラエル国産機で、ミラージュIIIより多くの燃料を搭載していました。また、落下増漕の燃料が残っていたため、爆弾の投下を終えた第2編隊をエジプト領内へ追撃します。
イプシュタインは距離300mまで接近し、機関砲による攻撃を仕掛けるも、Su-7は超低空を超高速で急旋回を交えて”ジンキング”していたため、照準に捉えることはできず、数度の短いバースト射撃を加えましたが命中しませんでした。
イプシュタインはエジプト軍のAAA防御最前線までの追撃を決意し、さらに20kmほどSu-7を追いつめ、Su-7が急旋回に入った瞬間、長目の射撃を行い、命中弾を与えました。Su-7は地面に衝突し炎上。これでこの日2機の撃墜を記録。合計8機となりました。

しかし、彼の1日はまだ終わりません。

●”ダブルエース” 

同日1973年10月19日。イプシュタインは三度アラート待機に就きました。
16時にこの日三度目のスクランブルが掛かり、同じネシェルに搭乗し離陸します。

途中、F-4Eファントム”クルナス”(ああ、やっとこのシリーズにアメリカFナンバーが登場です)と合流。
そのとき、南の方角に高度8000ftをMiG-21と思われる2機編隊を発見。イプシュタインはミグの背後に遷移しシャフリル2を発射。1機を撃墜しました。
1機は逃げようとし、イプシュタインもこれを追撃せんとしますが、運河の上空において、スホーイの集団が先の出撃時と同様の攻撃方法で運河沿いに攻撃を仕掛けようとしているのを発見したため、ミグを放棄し、スホーイへの攻撃へ切り替えました。
イプシュタインの二番機ドロールは、スホーイへ攻撃をしようとしている友軍のクルナスに接近する別のスホーイを発見。イプシュタインはドロールをクルナスの援護に向かわせますが、ドロールは間に合いそうに有りませんでした。
イプシュタインは無線で叫びました。

「ファントム、逃げろ!」

イプシュタインはコールサインを知らなかったため、関係のないクルナスまでもが離脱してしまいました。
そして、ドロールはクルナス背後のスホーイを撃墜。次いでイプシュタインも別のスホーイを機関砲で撃墜。この日、イプシュタインは1日で4機を撃墜。ついに10機の”ダブルエース”となりました。

デブリーフィングにおいて、彼が撃墜したのはMiG-21とSu-7ではなく、どちらも可変後退翼とより強力なエンジンを持ったSu-20で有ることが判明しています。
この1日だけでイプシュタインの所属するレフィディム空軍基地だけで15機ものエジプト軍機を撃墜しました。
一方でファントムライダーの間では、「いきなり逃げろと言われて離脱したら、すべてレフィディムの野郎(イプシュタイン)に獲物を奪われてしまった。」などと冗談交じりで言われる事になります。

最高の超音速戦闘機エースパイロット(完)に続く...

(更新日:2009年7月7日)

〜余談〜
1日で4機を撃墜という、WW2並みの記録を達成したイプシュタインですが、実のところ、イスラエル空軍における1日の最多撃墜記録では有りません。
二週間前の1973年10月6日、ヨムキプール戦争開戦初日にクルナスのパイロットであるシャロモ・エゴツィと、WSOのロイ・マノフが5機のエジプト軍Mi-8ヒップを撃墜し”ワンデイエース”になっています。
エゴツィは消耗戦争とヨムキプール戦争においてMiG-21を2機、MiG-17を1機撃墜し、合計8機とF-4に限れば世界一のエースパイロットです。
マノフもヨムキプール戦争中にMiG-21を2機撃墜し、合計7機とファントムライダーとしてはエゴツィについで二番目で、世界一の”エースナビゲーター”です。

最後に1日で4機撃墜を記録したのは”S”で、1982年6月11日、ガリラヤの平和作戦において、F-16Aネッツに搭乗しMiG-23を2機、Su-22を1機、ガゼルを1機撃墜しました。”S”は三日前にもMiG-23を撃墜しており、2009年現在、IDF/AF最後のエースパイロットとなりました。

ついでなので、もう一人最後のエースパイロットについても書いてしまいましょう。
F-15A/C バズ/アケフのパイロット、アヴニール・ナヴィで、1979年9月24日F-15AでMiG-21を2機撃墜。1982年6月10日F-15Dでスパローにより2機のMiG-23とサイドワインダーで1機のMiG-21を撃墜(1日で3機はF-15の最多記録)し、”S”の1日前にエースパイロットになりました。
さらに3年後の1985年11月20日に1機のMiG-23と、1機のMiG-23を共同撃墜。以上合計6.5機を葬りました。
アヴニール・ナヴィは唯一の”エースイーグルドライバー”です。
第56回:F-15 EAGLE 栄光の伝説 全撃墜リスト
5年前に作ったリストですが、ちゃんと彼の記録が入っててほっとしました。


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